About"TOMMY"

2/25/2014

#64 KOFU GOUSETSU




職場の周りは今なお重機やスコップで除雪する音が鳴り響いている。

豪雪から10日以上が経過したが、振り返ると長い1週間だった。
僕はそのど真ん中で生活していたわけだが、実際にどんな風に過ごしたのか僕自身も忘れない為に3日間の足取りを記録していこうと思う。

14日未明から雪は降り始め、1日中、雪。
仕事から帰るだけでも一苦労。帰路は渋滞し、会社のスタッフ2人を送り届ける。
普段20分から30分あれば十分行ける距離だったが、2時間かかってしまった。身動きが取れなくなってしまってはいけないと思い、
その日の晩に灯油を入れに行ったがたったそれだけの用の間に、2台ほどスタックした車を救出した。2週前の雪もあったため、雪かきようのスコップを購入して車に積んでいたことが功を奏した。

14日といえばヴァレンタインデーである。こんな夜に立ち往生しているカップルを助けながら、降りしきる雪を見つめてなんて日だと、そう思ったことを覚えている。

次の日の朝、同じアパートに住む、ヘアサロンCharme Corsocomoスタイリストの橘田さんの部屋。ソファで寝てしまっていた僕は、橘田さんに起こされる。僕の仕事の予定は休み。いつも休日は寝ぼけている僕を横目に、颯爽と出勤していくが、起こされたことと、その表情を見て、ただならぬことが起きていると直感した。

窓から外を見ると、朝になっても、まだ雪が降り続いている。普段、というか、生まれてから今までこんなに雪が降り続いたことがない。
すぐに出かける支度をして、スコップを持って外に出た。

なぜかといわれれば、この大雪のなか、自分のお世話になってる兄貴分の人を1人で仕事に送り出すわけにはいかないということと、あとはもう、直感的に寝てる場合じゃないと察したのだ。
街の様子を見に行かねば、と、なぜだかそう思った。それほど異例の事態だ。

それもそのはず、降り続いた雪は、甲府で観測史上初めて1メートルを超える積雪を記録していた。

外に出ると、まだ雪が降り、白い世界が広がっていた。割とすぐ大きな通りがある。交通量は山梨でも屈指の道だが。1台も車が通っていない。というか、通れる状態ではないので当然だが、こんな光景は見たこともない。男二人でスコップを担ぎ、徒歩で市内中心部を目指した。

歩いている人が数人いるが、車は通ることはない。救急車のサイレンが遠くで鳴っているだけだ。まるでSF映画のこの世の終わりでもみているかのようだった。


歩いている内に雪はやみ、晴れ間が見えてきた。

目的地である甲府駅北口に到着。お店を任されている橘田さんは
その日の電話対応をひととおり済ませる。とても営業できるような道路状況ではないのだ。その後2人で店の入口の雪かきをする。甲府駅からアーケード通路が続いていてそのおかげもあり隙間から入って積もった雪を片付ける。
それだけでもかなりの量だったが、屋根のない場所に比べればまだ良かった。
写真は雪をかいた後。



甲府駅北口の前山梨放送の前。
信号は動いているが埋まって放置された車が1台あるだけ。
県庁所在地のある駅前がこの状態というのは極めて異例。


歩道は完全に潰れてしまっているので車道を歩く。




晴れ渡る空。地上は白銀。照り返しが眩しい。


北口から中心へと続く橋の上から。辺り一面が真っ白。


市内中心部の道路はこんな状態。埋もれてしまっていてやはり車は通らない。


落ちた傘に雪が積もっている。傘の無力さ。


なんとか自分の職場まできたものの、道から駐車場まで腰ほどに降り積もっているのを見て絶望した。これだけでも人手がいる。
スコップを持った2人だけではどうにもならない。



会社の階下にはリハビリセンターが入っている。老人の方々が出入りするので
せめて入口までだけでもと、押し車や車椅子が通れるスペースは確保した。

ただ、ビル前の車道が潰れているのでほんの気休めであるが。


オリオンイースト。アパレルや飲食店が並ぶ路地。




ファーストフード店のドライブスルーがどうにもスルーできない状態に潰れている。




大雪から2日目は徒歩で実家まで歩いた。甲府市街からはだいぶ離れるのでまだ除雪されていない道がほとんどだ。スコップを杖代わりに2時間ほどの道のりを歩いた。
ただひたすらに雪道が続く。


実家に着いて、スノボウェアに長靴の装備を整え、仕事でもお付き合いのある
美容室VISIONへと雪かきの手伝いに向かった。誰に頼まれた訳ではないが、実家も大丈夫そうだったので、少しでも人手の足しになればと思ってのことだった。

とにかく自分に出来る事は、情報をSNSで拡散する事以外に雪かきくらいしか思い浮かばなかったのだ。行政を待っていてもしょうがない。その間にも刻々と時間は過ぎるのだから。観測史上、過去120年になかった事だ。体験したことのないレベル
の積雪に対し身体を使うことで、不安を解消していたのかもしれない。
僕は幸運にも怪我や事故なく、歩きまわることができたので、それくらいのことしか
思いつかなかった。

この時、高速道路の出口や国道、山間では車の立ち往生、
甲府と東京を繋ぐ中央本線でも列車が取り残されている状況だっただけに
他県や中央行政からの救援がくるまで、
動ける人が動いて除雪をするほかなかったのだ。

大雪から3日目。この日も実家に行ったついでにスノボウェアと長靴を履いて
出勤した。会社駐車場はご覧の通り。


ビルに入っている会社の人達と協力し、
人力で2日かかった。


隣の月極駐車場の車庫は潰れてしまっている現在は撤去。


かいた雪だけでスノーボードハーフパイプが作れそう。

大雪から3日間の移動は徒歩がメイン。
スコップを担いで移動、雪かきという3日間だった。

それはぼくらだけでなく、甲府が生活圏の人々はほとんどそうだっただろう。

呑気なこと言ってるかも知れないが、あらためて街を歩いてみると
こんな建物、店あったんだとか、
人が出てきて雪をかいているのを横目に、
こんな小さな街だけど
知らない人ばっかりだなと、あらためて感じた。

冬は極寒、夏は灼熱。

自然環境の厳しい街甲府


おそらく、この1週間、被災地域のみなさんの肉体、精神的な疲労は相当なものだったろう。大雪によってこれだけのダメージである。
それを考えると、いまなお復興の続く3.11被災地の負担は想像を絶すると、
この身を持って感じた。

山梨県内は交通も流通も遮断され陸の孤島と化した。
今まで雪なんか何㎝か積もればいいとこ、
2週間前は16年ぶりに40㎝を超え、その翌週にこの豪雪。
まだ雪の処理もなにも追いつかないまま、
気づいたら盆地は白い雪に埋もれてしまっていた。
山梨県甲府は冬は山々からの吹き下ろしによって
冷たい北風の寒さが厳しい土地でもある。
が、夏は平気で気温が40°に達する灼熱の土地でもあり、
最高気温で度々全国ニュースに取り上げられるほど。
1メートルを超える積雪なんて、
そこに暮らす市民や行政も妄想にすら描いていないのである。

よって、道路も建築物も備蓄や設備も雪に対する耐性など一切持ち合わせてはいない。
そもそも山に囲まれていることもあってか、
台風などもあまり直撃しないし、災害に見舞われること自体が珍しい。
今回雪害となって僕らの身に降り注いだのはいい教訓だったかもしれない。
雪に耐性のない土地に大量の雪が降った場合どうなるのか。

それが1週間で実証された。結果は惨憺たるものだ。

幹線道路は雪に埋もれ山梨県内の交通網はもちろん、
首都圏からもストップ。それにより物資の供給も止まり、
スーパーやコンビニで食糧の買い占めが起きて商品棚は空になる。

雪をかく道具も装備もない。捨てる場所もない。
山間の町には孤立する地帯が出てくる。何日も厳しい寒さの中、
送電もストップしたまま孤立してしまった集落もある。鉄道も使えない。
途中停まった車輌すら助けにいけない。車は立ち往生し、
凍死してしまう人や車輌が雪に埋まり一酸化炭素中毒によって中毒死してしまう人もあらわれ、県内の死者は5名にものぼる。

雪害対策のなされていない民家の屋根は歪み、カーポートは軒並み崩れる。
農家のハウスも同様、ほぼ倒壊してしまい復旧には至っていない。
フルーツ王国といわれている山梨の果樹栽培を直撃した。
これは山梨の観光産業にも直結する大問題だ。
今年は山梨県産の美味しいフルーツが高騰するかもしれない。

二次的災害はいまなお続く。捨てる場所もない雪は街の至るところに高々と積まれ、
歩く人や車輌の妨げとなっている。交通渋滞を巻き起こす上、雪自体が人影を遮断してしまうほどの高さなので大変危険だ。

平常の生活にはまだ遠く、連日除雪作業が続いている。
地元建設業の方々をはじめ、自衛隊の皆さんや新潟、長野、茨城など近隣県から除雪、救援部隊が派遣され作業にあたってくれている。
十分な重機や人手もないなかで、たいへんありがたい。
ここに書いただけでも甚大な被害であるがその全容は僕も把握しきれてはいない。

SNSでは情報が飛び交いリアルタイムに様々なニュースが流れたが、
色々な事情があって、TVをはじめ全国的にはあまり報道されなかったようだ。
TVで扱われない、
不安の中で情報が交錯し政府や自治体の対応を巡って様々な意見が紛糾した。

というのも無理はない。それほど、誰もが体験したことのない未曾有の事態だったのだ。
何の準備もない市や県の地方自治体の手に負えるレベルではないので国に対して救援を求める声がネットでは燃えるようにあがった。
もうお手上げ状態だ。
2chではこんなスレッドが立てられ、他県に向けてSOSを叫んだ者もいる。


わざわざ僕はこの場で自治体や政府の対応を今さらうんぬんかんぬん批判を繰り広げたいわけもなく、いつまでも不遇を嘆いていても仕方がない。
3.11の時にも感じたことだが、災害が起きた時、
助けが来るまで自分で出来る範囲でなんとかしなくてはならないと強く感じた。

今後の対策と僕らに必要なこと

3.11において山梨はあくまで間接的な被災だったため、
今回のように直接被災地の中にいる状況ではなかった。
明けの15日時点、県知事からも自衛隊に派遣要請が出されている。
道の途中では車が立ち往生し、身動きが取れず、
JR中央線は路線上に10本の電車が孤立。900人が何日も閉じ込められる事態となった。

僕の生活圏では車で出勤できるレベルにはなって、平常に近づいてはいるものの、いまだに孤立をしている地域があるという。
今後も情報提供や拡散は続けていきたい。

そして県や市はこれを教訓に、120年に1度などという漠然とした確率論でなく、
いつ同じような、またそれ以上の規模の雪害が起きても今回の様なことにならないような対策と整備を進めて欲しい。もちろん地方自治体だけでは不可能である。
せめて国からの救援が来るまでの間、
もっと被害を減らす対策を講じることは今後出来るはずだ。
今回県の災害対策本部が設置されたのは大雪から72時間経った3日目。

「前例がない」「備えがなかった」は2度目は通じない。

雪国では雪が降っている途中から市街地を除雪車が走り回り、
住民は雪かきをはじめるのだという。
雪の予報が出た際には塩カルなどを撒いておく。
今回は塩カルの備蓄も少なかったそうでホームセンター、各自治体も今までの基準を改め、自治体が主要道路に散布、それが無理ならば各家庭、もしくは各企業単位で配布するくらいの備蓄はしておいてほしいものだ。

そして有事の際には、公共機関のホームページは緊急事態であるという危機感が伝わるような工夫も必要だ。
ホームページを見ても、のどかな風景の写真に文字だけ、例え赤色になっていてもイマイチ切迫した状況が伝わってこない。

埼玉県では県知事が秩父市の状況をホームページで見て救援が必要でないと判断し自衛隊への派遣要請が遅れた事例が今回あった。

災害が起きた場合、画面が緊急用に切り替わり、危機的状況を正確に伝える。せっかくつくってある公式ツイッターアカウントのTL位はトップに表示できるくらいのことはしてもいいだろう。とにかく迅速かつ生きた情報を発信する工夫を自治体でも取り組んで欲しいと思う。

今回の雪害を体験して僕が1番必要だと感じたのはコミュニケーションではないかと
思うに至る。
コミュニケーションとはいっても、画面上のやりとりのものではなく、リアルな
人と人との対話
「声かけ」である。

自身のSNSの繋がりがいかにマイノリティで希薄なものかが改めてよくわかった。
ツイッターの情報はリアルタイムだが、近隣のおっちゃんおばちゃん、じーさんばーさんが情報を追い切れているはずもない。僕ら世代には信じられないことだけど、中高年層のメインソースはTVからの情報でありTVこそ絶対正義なのだ。
情報強者である僕ら若者が正確な情報を吟味し、正確に伝え、扇動することが重要だと考える。
なにも放送局をジャックする必要はない。自分の身近な範囲でかまわないのだ。

友人の住むアパートでは、近隣住人が誰も雪かきに出る気配もなく、雪かきしたいが道具も手に入らない(県内全域のホームセンターで雪かきスコップなどが品薄になっていた)状況で、途方に暮れているという話も聞いた。

僕の住んでるアパートは僕を含め3人の住人がいる。
1人はご存知の通り兄貴分である橘田さん。
もう1人は歳の離れたおじさんが1人暮らしをしていて、とても気さくな方だ。
豪雪1日目、僕らが職場に行く準備をしていると、外に様子を見に出て来てくれた。職場の雪かきをしたあと、アパートの雪かきはやっておくのでと伝えたところ、そのお礼にと、晩飯にカレーを振舞ってくれた。
流通が麻痺して食料品が入手しづらい中であたたかいカレーを分けてくれるなんて、とてもありがたい。

図々しく部屋に上がり込んでおかわりまでした。スパイスが効いていてとても辛い。けどうまかった。美味しいコーヒーを出してくれて、自前のアコースティックギターまで披露してくれた。3人で昔の音楽や色々な話しをして盛り上がった。コミュニケーションが希薄になってるといわれている世の中で、
いざ有事の際には自然と隣人と顔を合わせ、連携する体制が整っていることはなんとも心強い。
そしてなによりこういった災害で、ささやかではあるが、人と人とが声をかけあい、手を取り合うことで得られる心の安堵感は何にも代え難いものがある。
雪で閉ざされ、不安や焦燥から気持ちは荒む。そんな中で凍り付いた心を溶かしてくれるのもまた、人の心ではないだろうか。

国道、高速道路、鉄道、全てが閉ざされた陸の孤島。
心まで閉ざしてしまえば、絶望してしまう。
そんな時こそ、心はオープンに構えておくことが大事ではないだろうか。

参考リンク:平成26年豪雪(wiki)

1/27/2014

#63 izumo Ex.

道草を食う。食べてこその旅。
ただ目的地に辿り着くだけでは味気ない。僕らは楽しむ事を忘れない。
限られた時間ではあるけれど、先は長いのだから。
お腹が減ったら美味しいものを食べて英気を養うのが1番だ。


往路で立ち寄ったのは京都。京都といえば豆富。
口当たりはしっとりさらさら、コクのある大豆の旨味が凝縮されたおぼろ豆富。

湯豆富で冷えた身体をほかほかに温める。たっぷりの野菜ときのこと共に頂く。

復路では名古屋に寄り道。旅も残り300キロ。うなぎでしっかりとスタミナをつける。
うなぎの肝吸いはマスト。滋養強壮。これでさらなるパワーアップが謀れる。
ひつまぶしをしめくくるフィニッシュの形はやはり
ダシをかけて余すところなくうなぎの旨味を頂くのが定石だろう。
薬味のねぎとワサビがアクセントとなって食欲倍増。
吸引力の変わらない某掃除機のような吸引力で一気にかけ込む。

だし巻き玉子に巻かれたうな玉。さっぱりと大根おろしで頂く。

出雲大社参拝後に頂いた出雲蕎麦。
この蕎麦はそば湯にどっぷり浸かった状態でサーブされる。
つけあわせにダシつゆがセットされ好みの味を調整、
そば本来の薫りを存分に味わうことができる。

何もない近道よりも、花の咲いた遠回り。

今回の遠征は、時間も無い中で、車を使い往復1500キロを走った。
出雲には実は空港がある。
空路を使えば片道1時間でいける。
ほんの少しの時間、シートで寝てればつくことができるところを、
僕らは陸路を
往復20時間かけて行ったのだ。
しかも飛行機や電車とは違い、
最初から最後まで自分たちの手で運転していかなければならない。


なんて無謀な

なんでそんなこと

たくさんの人に帰ってきてから言われたことだが、
一般的な常識で考えれば全くその通り。返す言葉もない。
がしかし、車で行ったからこそわかったこと、感じたことがたくさんあった。
その街々の光景や、道がどのように続いているのかを初めて知ることが出来た。
頭の中でぼんやりとしていた西日本の地図は、出雲から帰って来た後では鮮明に思い描くことが出来る。
名古屋、京都、大阪、神戸は街の灯りがきらきらと輝き、遠くでビルの赤灯がまるで呼吸をするようにゆらいでいる。その中を走る僕らは巨大な生き物の血管を通っているようで興奮を覚えた。
兵庫から岡山へ、鳥取から島根へつづく夜中の山隂道では、
月明かりが山々を照らし、浮かんだ山の影が僕らを見守るように静かに佇んでいた。
車は僕らを乗せた1台のみ。雪が降り始め、辺りを白く覆っていく。
なんとも幻想的な光景は目に焼き付いて離れない。
陸路で行ったからこそ出会えた景色がそこにはたくさんあった。
ミーハー心が旺盛な僕は海外の美しい光景に憧れることが多いのだが、
まだまだ知らない日本の美しさの断片を目の当たりにすることができた。
車の中だからこそ通り過ぎる景色を見ながら出来た話もある。
なにも考えずに、歌をバカみたいに歌って笑うこともできた。
なにより、目的地を目指しそれを自分たちの力で果たすという目標を課して、
実現させたときの達成感は何にも変えられない。

ここまで行くことができたら次はここまで。
成し遂げるまでは大変な道のりも、乗り越えることで、
それを当たり前にこなせるレベルにしていくことが、成長や上達といった言葉に置き換えられるのではないだろうか。そうやって世界は広がる。
日々の生活においても、仕事においても同じ事が言える。
それを身を以て学ぶ事が出来た遠征だった。


#62 izumo03

世の縁をむすぶ神。出雲大社を参拝する。

いよいよやってきた出雲大社。生憎の雨で身体も冷える。傘など差して片手間になってはいけないということで、雨合羽を着用。これで思う存分祈願できる。
出雲大社の参拝は一般的な神社の二礼二拍手一礼ではなく
二礼四拍手一礼
となっており、
作法1つとっても、他の神社にはない特別感。
出雲大社が数ある神社の中でも高位で偉大だということが窺える。
合羽を着ていて分からないと思うが、僕ら二人、
神前ということでしっかりジャケットにネクタイという正装で臨んでいる。

鳥居をくぐる前に記念撮影。



出雲大社の敷地は広大。参道を歩く。

今年の干支でもある馬を撫でる。



出雲大社といえばこの巨大なしめ縄を思い浮かべるかと思うが
じつはこれ、本殿ではない。


出雲大社に祀られているオオクニノヌシ。「古事記」のなかでも有名な因幡の白兎というエピソードを再現したもの。このエピソードこそオオクニノヌシの懐の大きさを物語る重要なファクターである。気になる人がいたらgoogle先生に尋ねてみるといいだろう。






出雲大社は昨年、平成の大遷宮という5年がかりの一大補修イベントが行われたばかり。
伊勢神宮は20年に1度行われる通称、「神様のお引っ越し」
出雲大社はなんと60年に1度という半世紀以上のロングスパンで行われる。ということは次回の遷宮が行われるのは僕が齢80も後半に差し掛かったころである。

こちらが本殿になる。内部の撮影は不可。警備員もしっかり配置され厳格な雰囲気が漂う。

おみくじがびっしり。

こちらが本殿の裏手。その大きさがお分かりいただけるだろうか。


 偶然が偶然を招き、不意に訪れることとなった出雲の地。しかしそこに行こうと思わなければ一生来ることはなかったかもしれない。このタイミングだったからこそ、こうして出雲大社に参拝することができた。これも何かの縁とはよく言ったもので、僕らは導かれていたんじゃないかと思う。
思い起こせば、一緒に今回の遠征に同行してくれた、スタイリストを務める橘田さんと出会ったのも些細な偶然の産物だったのだ。ひょんな出会いから歳月を経て、今では互いの目標、目的を果たすために切磋琢磨する。先輩でもあり、仲間であり、パートナーのような存在として僕にとっては重要な人物に他ならない。
なにをするにも縁は大切である。人だけでなく、物や、環境に出会うのも縁が重なって具現化し現実の事象として顕れる。偶然は単なる偶然ではなく全てに意味があり自身に必要な出来事なのではないだろうか。つまりよく言われている『偶然ではなく必然』である気がしてならない。無駄なことなど何一つないのだ。過去は現在の自分の背中を押し、未来へと歩を進ませることが出来る。今までに出会った縁、これから出会うであろう縁、どれだけ些細な出会いや出来事も大切にしていきたいと今回の遠征で改めて強く感じた。

1/26/2014

#61 izumo02

神門をくぐる前に身を清める。

明け方雪の降りしきる出雲に到着。すっかり外は明るい。通り過ぎる山々は霞がかっており、神聖な雰囲気がその土地一帯に立ちこめているように感じた。参拝の前に、穢れた身体を清めようということで立ち寄り湯を探し奧出雲の山中へ。早朝から営業し、渓谷を望む絶景の露天風呂に辿り着くことができた。
雲がすぐ頭上を覆い、山々の隙間からちらちらと雪が舞い落ちる様を見ながら
浸かる秘境の湯。極楽かな。








いよいよ次回は出雲大社本殿へ。

つづく→